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名古屋地方裁判所 昭和45年(わ)754号 判決

主文

被告人を懲役二年に処する。

ただし、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は中学校卒業後五年程板前見習の修業をし、その後各所の飲食店等に勤務したうえ、昭和四三年一一月ごろから名古屋市緑区鳴海町所在の古橋安雄経営にかかる「みよし食堂」に責任者として勤めていたが、昭和四五年二月同店を辞め、同年三月上旬から独立して同町有松裏三四番地で「宗吾食堂」という屋号の飲食店を始め、現在に至っており、その間昭和三四年から同四四年までの間、いずれも道路交通法違反により五回、水産資源保護法違反により一回、名古屋簡易裁判所または亀山簡易裁判所において罰金刑に処せられている者であるが、昭和四五年三月一日午後八時三〇分頃前記宗吾食堂の開業準備の相談のため知人を訪ねる等の目的のため助手席に知人の中島兼光を同乗させたうえ普通乗用自動車(マツダファミリア名古屋五む四〇―三四)を運転して自宅を出発したが、青柳通りを経て仲田通りの交差点に差しかかった際折から赤信号のため一時停車したが助手席の右中島と雑談していたため前方注視を怠ることとなり、信号が「進め」に変たっことの発見が遅れたため、たまたま被告人の運転車両の一台おいた後方に停車していた中日本観光バスの運転手戸部剛(当時三七年)が被告人の注意を喚起し、発進を促すため警笛を吹鳴したところ、その後被告人は同交差点を左折し西進を続け、また右戸部の運転する観光バスも被告人と同一コースをたどったが、被告人は前記のように警笛を吹鳴されたことを根に持ち故意に右バスの進路上に出たり、あるいは蛇行運転等をしたりして右バスの進路を妨害したため、途中右戸部はその運転する観光バスを被告人の運転車両の左前方にかぶせる方法によりこれを停車させたうえ、降車して抗議するべく被告人の運転席へ近づいたが、被告人はこれを無視して発進したことがあった後、

第一、同日午後九時一五分ころ、名古屋市東区赤萩町一丁目七二番地先千種橋西交差点に至り信号待ちのため停車したところ、後続する右戸部も停車したが、被告人の運転態度に立腹した右戸部は更に降車したうえ被告人の運転車両に近づき運転席の被告人に対してその運転態度をなじるような言動をなして窓越しに被告人の右肩辺りをつかんだためこれに憤慨しいきなり右戸部の手をふりはなちざま手けんで同人の顔面を一回殴打して暴行を加え、

第二、前記日時場所において、前記のように右戸部に暴行を加えた後、ただちにその運転車両を発進させてその場から逃走しようとしたところ、右戸部がこれを阻止するため被告人の運転車両のボンネット上にとび乗ってきたにもかかわらず、あえてその運転車両の走行を継続させ、そのため右戸部はボンネット上に俯伏せになり下半身を車両右側に垂下させたまま両手でワイパーにしがみついたのであるが、そのような状態のまま加速して運転を継続すれば、なん時右戸部を道路上に振り落し、死亡させるかも知れないことを知りながら、あくまで右戸部を振り落してでもそのまま逃走し終えようと決意し、同車の時速を約五〇キロメートルにまで加速したうえ、蛇行運転もまじえて、途中助手席の右中島の制止の声にも耳をかさずそのまま同区水筒先町四丁目六番地先路上まで約二九〇メートルの距離を疾走したが、追尾してきた後藤富男運転の小型貨物自動車が被告人車両の前方に出て停車を余儀なくされたため、右戸部を死亡させるに至らなかった

ものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法第二〇八条、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に該当するので所定刑中懲役刑を選択し、判示第二の所為は刑法第二〇三条、第一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、右は未遂であるから同法第四三条本文、第六八条第三号により法律上の減軽をし、以上は同法第四五条前段の併合罪なので、同法第四七条本文、第一〇条により重い判示第二の罪の刑に同法第四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処することとし、なお情状をみるに被告人は自動車運転中は平静な心を保つべきであるのにこれをわきまえず些細な事に憤慨し、思慮分別のない行為を繰返し、剰え本件各犯行を敢行したことにおいてその情状軽からずというべきであるが、本件犯行に至るまでの経緯には被害者にも少々軽卒な点があったこと、幸い本件犯行は死傷の結果を惹起することなく終り、その後被害者との間に示談も成立していること等の諸般の事情を考慮し同法第二五条第一項を適用して、この裁判の確定した日から四年間右の刑の執行を猶予することとする。訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

(判示第二の事実につき未必の殺意を認定した理由)

まず殺意の点に関する被告人の供述調書をみるに、被告人の検察官に対する昭和四五年六月九日付供述調書によれば、「ボンネット上に被害者を乗せたままの状態で車両を走行すれば、被害者は車両より転落し、その結果路上で頭を打ったり、他の車両に轢かれたりすることにより傷害を負うことになるかもしれないとは思ったけれども、それ以上に死ぬようなことがあるかもしれないとは全く考えなかった」旨の記載があり(検察官に対するその余の各供述調書にもいずれも同趣旨の記載がある)、また司法警察員に対する同年三月四日付供述調書によれば「その運転手さん(被害者)が手を離せば、へたをすれば私の車の後輪に轢かれるか又は後から来る車に轢かれて大怪我をするか、へたをすれば死ぬかもしれんとは思いましたが逃げなければいけないと思って夢中でこのようなことをしたのでした」旨の記載がある。また一方被告人の当公判廷における供述によれば被告人は右殺意を一貫して否認したうえ更に検察官に対する各供述調書に右のような記載があることについては、検察官の取調が「冷静になって考えた場合にどうやと言われるので、私は『そうです』と答えた」というのであり、またその際被告人は「あの当時は興奮しておったし、秒数も短かいことだったのでそこまで考える余裕はなかったとくどい位言った」というのである。そうすると本件犯行自体が通常の殺人の定型性を備えないものであるうえ、本件は未必の故意に関するものであるだけに右のような供述の存在することの一事を以て直ちに被告人に殺意があったとかなかったとかと判断することは早計に失するというべきである。

そこで更にもう一歩進んで具体的に本件犯行の態様について検討するに、前掲各証拠によって認定できる客観的事実は判示のとおりであるが、被告人は被害者に対して暴行を加えた後逃走を企て自己の運転する車両を発進させたところが、右自動車の右側ドアーの傍に佇立していた被害者が被告人の意図を察知してこれを阻止するため右車両のボンネット上に乗りかかり、更に発進する車両から転落しないようにボンネット上に俯伏せになり下半身を車両右側に垂下させたまま両手でワイパーをつかんでいたのであるが、被告人は被害者が右のような不安定な姿勢にあるのを認識しながらあえて停車することなく走行を続け、その速度は交差点内においては時速一〇キロメートルか一五キロメートルの低速度であったものの、右交差点を出てから一躍速度を増し、時速約五〇キロメートルの速度で走行を続け後続車が右の事態を認識して被告人に対して停車すべき旨合図して警笛を吹鳴し続けたにもかかわらず、これを無視し、途中二、三回蛇行運転を繰返したうえ、やっと後続車の後藤富男運転の小型貨物自動車に進路を妨たげられることによってはじめて停車するに至り、結局被害者をボンネット上に乗せたままの状態で約二九〇メートルの距離にわたって走行したというのである。そしてこのような運転中の被告人の心情について被告人の当公判廷における供述によれば当初被告人は被害者が車両より飛び降りることを期待していたため交差点内においてはゆっくり走行したが、被告人の期待に反して被害者は飛び降りることなく、かえってワイパーにしがみついていたためいっそこのまま走行を続けたうえ相当程度離れたところで停車しそこで被害者を降車させるべきことを決意し、そのため交差点を過ぎてからは速度をあげたものであり、また蛇行運転については右後藤富男運転の車両が被告人運転の車両を停車させるべくその進路を妨害してきたため、接触をさけるために已むを得ず進路を変えたため、結果的に蛇行運転の形になったにすぎないのであって、このような運転により被害者を転落させる意思は毛頭なかったというのである。しかしこの点に関する被告人の各供述調書をみるに、被告人の検察官に対する同年五月一五日付供述調書によれば、被告人は被害者が飛び降りることを期待して交差点内を低速度で走行したにもかかわらずかえって被害者はワイパーにしがみついていたため、被告人は被害者があくまで被告人運転の車両を停車させる決意であるものと速断し、一層被害者に対する憤慨の念が高まり激昂し、この際被害者を振り落してでも逃走すべき旨決意し、そのため交差点を過ぎてから一躍速度をあげると共に、更に蛇行運転を繰返した旨の記載がある(被告人の検察官(同年四月四日付)および司法警察員(同年三月四日付)に対する各供述調書にも同趣旨の記載がある)。そこで相反する右各供述のどちらを信用すべきであるか検討するに、まず被告人は弁解して被害者を相当程度離れた場所で降車させるつもりであったというのであるが、被告人の当時の心境からして逃走することに急であったと思われるのに何故そのような事をするのか人をして首肯させるに足る合理的な理由がないばかりか、かえって被告人と被害者との間の判示認定の経緯からすれば被告人は相当程度興奮激昂していたことは疑いなく、≪証拠省略≫によれば、被告人運転の車両の助手席に同乗していた右中島が被告人に対して走行中何度も止まれと制止したにもかかわらずこれを無視してあえて走行を継続したばかりか、その速度は前記のとおり約五〇キロメートルという相当の高速であるうえ、後続車の警笛の吹鳴にも耳を藉さず前記のとおりの経緯により已むなく停車するに至るまでの間、被告人には自ら停車しようとする意思は毫も認められないのであって、このような事実関係からすれば被告人には前記のような形態で運転することについて並々ならぬ決意がうかがわれるのである。そうするとこのような関係において前記供述をみればはるかに後者の供述が合理的であって措信するに足るものといわざるを得ない。すなわち被告人は交差点をすぎてからは被害者を振り落してでも逃走しようと決意し、前記のような高速運転および蛇行運転をなしたものと解されるのである。もっとも≪証拠省略≫によれば蛇行運転につき被告人の弁解に副う部分があるけれども、仮に蛇行運転につきそのような理由も一部あったとしても右に説示した理由から被告人に蛇行することによって被害者を振り落そうという意思も競合していたことは否定できないのである。

次に被害者が右のような運転により転落する蓋然性があったか否かについて検討するに、ボンネット上における被害者の姿勢は前記のとおりであってそれ自体不安定なものであるうえ、ボンネットはもとより人や物を乗せることを予定して作られたものではなく滑り易く、かつ、前部左右いずれも低く傾斜しており、そのためこの上に人や物を乗せるときは不安定極まりない状況になることはここに多言を要せず、また≪証拠省略≫によれば被害者がその身体を固定させるためにつかんでいたワイパーはそのため毀損していたというのであり、右ワイパー自体被害者の身体を支えるためには到底充分なものということができず、又バックミラーが曲っていたからといって直ちに被告人が推測し、弁護人が主張する如くバックミラーに戸部の足がかかっていたものと推定することはできず、足を動かしているうちに何かの機会に触れて曲げたということは大いにありうることであり、この点はむしろ戸部の証言している如く、又証人後藤の供述にもある如く、足はかかっていなかったものとみる方がその場の状況からして自然であるように思われるが、仮に足がかかっていたとしても、バックミラー自体それほど頑丈なものではなく現に曲げられており、そのような姿勢が弁護人の主張する如く安定したものとは到底いうことができない。結局被害者は極めて不安定な状況にあったと判断されるが、そうした状況において被告人は時速約五〇キロメートルの速度で約二九〇メートルの間車両を走行させたばかりか、二、三回蛇行運転も繰返したというのであるから被害者が車両から転落する蓋然性は相当高度のものであったといわざるを得ない。

現に≪証拠省略≫によれば走行中被害者の身体は進行方向に向かって右左にぐらつき、被害者は手を離したら命が危いと思ったというのである。そこで進んで犯行現場の道路および交通の状況について検討するに、≪証拠省略≫によれば被告人が被害者をボンネット上に乗せたまま走行した判示認定の名古屋市東区水筒先町四丁目六番地先路上に至る道路は幅員二四メートルの中央分離帯(幅員二メートル)ある、完全舗装された平坦な道路であって、その交通量は司法巡査作成の同年三月一五日付捜査報告書によれば日曜日の判示犯行時ころには一分間に約一二台強(但しこれは雨天の日のデーターなので、平常はもう少々多いことが予想される。又平日の場合には、二一台強である。)の普通自動車以上の自動車が走行するというのであり、現に≪証拠省略≫によれば本件犯行当時、信号待ちしている車は七、八台はあり、又同人が被告人運転の車両を停車させた時にもかたわらを通過していく車両もある一方、三台位の後続車両が停車したというのである。そうすると先に判断したとおり被害者が車両より転落する蓋然性が相当高度である一方、道路および交通の状況が右のとおりである以上一度転落したときは舗装された道路で身体を強打し、あるいは自車の後輪又は後続車両等に轢過されることにより死亡の結果が発生する怖れは優にあったといわざるを得ない。

そうすると、被害者の当時の態勢、車両の速度、蛇行運転の態様等からみて被害者の転落の蓋然性が極めて高く、且つ転落したときは当時の道路および交通の状況からして容易に死亡の結果発生が考えられる本件においては、被告人がボンネット上に俯伏せになっている被害者を振り落そうとして高速運転と共に蛇行運転をした点から見て、被告人には被害者の生命身体の安全に対する配慮が少しも認められないのであるから、被告人の被害者を転落させてでも逃げようという意識の根底には転落から生ずる右のような危険な結果の発生をも辞さぬという程度の認容が包蔵されていたといっても決して不自然ではないと解される。

よって判示第二の事実につき未必的殺意を認定することとした。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 村木晃 裁判官 島田仁郎 北島佐一郎)

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